すしろぐ

https://filmarks.com/users/uninosushi

なんだか今日いけそうな気がする 現象

 

すきなものの話をしたときに書きそびれた。

好きなものの共有に興味を持ったのは最近の自分の環境の変化に理由がある。

最近、自分の中で「価値観の違い」という言葉を聞く機会が増え、好きなものの共有への恐怖の根源が分かったからだ。

 

 

価値観の違い。

友達カップルに別れの理由を聞いた時や、有名人が離婚を発表するときなどにこの言葉を聞く。価値観の違いとは、非常に矛盾していて、そして便利な言葉だと思う。

矛盾しているというのは、価値観が全く同じ人間というものはこの世にいないという根拠に基づく。価値観が違うということは逆に言えば、自分にはない考え方を知ることができるチャンスだと思う。考え方が違う人間に出会ったときの態度はその人のキャパ、器を表すと思う。それを面白いと思うのか、そんな考えもあるなと受け入れるのか、はたまた突っぱねるのか、それにとどまらずおかしいと断言するのか。

 

便利、というのは、価値観の違いという言葉自体がオブラートに包まれたものだからだ。価値観の違いでうまくいかなくなった、別れた、というのは、

 

元々違うモノである相手の価値観を、もう許容できるほど好きじゃない

 

を綺麗に言い直したものである。

もっといえば、相手と自分の考えや生活スタイル、生き方の違いを楽しんだり、興味を持ったり、すり合わせたり、許したり許されたりしたいほど、好きじゃないよの美辞麗句。

 

相手の価値観つまりは相手の好き嫌いを知ること、そして許容することは、それを出来るかどうかで相手との距離感や相手がどのくらい好きか分かる踏み絵みたいなものだと思うようになった。

今まで感じていた、好きなものを共有することの恐怖はここに理由があったのね、と思った。

もしそれを受け入れられなかったときに、自分の、相手の、本当の気持ちを知るということが怖かったのだ。

 

私は映画を映画館で見ることが好きなのだが、その時、絶対に見たい映画を相手に先に言うことはなかった。どことなく見たい気持ちを漂わせることはあっても、明言して誘うことはなかった。それは、映画館で、自分が見たい映画と相手が見たい映画が違ったとき、自分の映画の趣味と相手の映画の趣味が違ったとき、『この人の好きなものに歩み寄りたい』と思うかどうかで、自分と相手の気持ちが分かってしまうからだった。

 

 

好きなものの共有は、知りたくないことを知ってしまうリスクをはらむ。しかし、ぬるま湯につかって、リスクから逃げていても、ずっとぬるい人生だよな、、、という冒険心が、リスクをおかしても深淵をのぞいちゃう????という勇者モードを生んだ次第である。

そんなこんなで、「いろんな人と好きなもの共有したいモード」の今の私は、全く勉強しなかったテストの前日になんかいけちゃいそうな気がする減少と同じ類いの死亡フラグが立っている。